礼拝メッセージ



8月14日のメッセージ

創世記12:7「 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」

 神がアブラハムに語られた二つ目の約束です。最初に語られた通り、アブラハムはカランの地を出て、カナンの地までやってきました。ここにきて、「わたしの示す地」がその場所であることが明らかになりました。そこはこれから始まる大きな神様の計画の舞台。イスラエル民族だけでなく、異邦人にまでも祝福の始まりとなると主が宣言された土地でした。

 しかし一方で、そこはカナン人の住む地であり、ウルやカランと同じように異教の地でもありました。「約束の地」のはずが、アブラハムにとってそこは必ずしも安泰な環境ではなく、居心地が良いわけでもない。先住の民族との微妙な関係があり、問題は山積みで、信仰を守り通すために覚悟も必要。アブラハムも少しは思ったかもしれません「考えていたのと違う」と。

 信仰によって一歩を踏み出した時、往々にしてアブラハムと同じような状況に私たちも立たされます。しかし主なる神様は、私たちのその一歩に対して、短いながらも確かな約束のことばを語るのです。「私はこの地を与える」と。それは侵略でありません。私たちを通してその場所に祝福が与えられるためです。そのために必要なのは、信仰による一歩です。

 今週あなたがする信仰の決断、新しい一歩の上に、主の祝福がありますように。

8月7日のメッセージ

7月31日のメッセージ

詩篇23篇1-2

「主は私の羊飼い。私はとぼしいことがありません。主は私を緑の牧場にふさせ、いこいの水のほとりにともなわれます。」

 私たちを創造されたお方は、すべてをご存じで、そしてすべてのことを備えてくださる方です。イエス様はご自分のことを「よい羊飼い」であると語られました。一頭一頭の状態をすべて把握し、愛している羊飼いは本当に良い羊飼いです。さらに一匹の羊のために命までかけるような羊飼いは、ありえないほどに大きな愛の持ち主です。

 この詩篇はとても個人的な、創造主である神様への告白のことばです。このように愛してくださるよい羊飼いを主として仰ぐとき、「私」のうちに絶対的な信頼感が生まれました。家畜としての羊は、正しくお世話をする羊飼いがいないと倒れても自分では起き上がることもできないといわれます。目も弱く、牧草地へ導く人がいなければ迷ってしまいます。しかし私たちに必要なことのすべてを知っておられる方がともにいるなら、私たちはこの方に信頼することができるのです。イエス様は助け主であり、導き手であり、備え主であり、平安を与える方であると告白できるとは、とても素晴らしい恵みではありませんか。たとえ今が困難な時であっても、よい羊飼いであるイエス様を信頼していきましょう。

7月10日のメッセージ

創世記9:1-17

「ノア契約」

「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。」

 アダムとエバの子孫が地上に増え広がり、やがて地上に人の悪が増大するになると、神は洪水によってこの地を滅ぼすことにされました。ただ一人ノアとその家族だけは洪水によって滅ぼされませんでした。大洪水を通り抜けた彼らに、神様は今日の箇所のことを約束されました。

 1~7節を通して、それまでの地上の様子を垣間見ることが出来ます。最初の契約では「地を従えよ」と語られていましたが、ここでは「ゆだねている」です。アダムの罪以来、地上はサタンによって侵略を受けているので、人がこの地を完全に支配することが出来なくなったからです。それは人々がふたたび悪に走る可能性をかかえています。

 ここで神様は二つ目の契約を結びます。それは「大洪水によってはほろぼさない」という契約でした。神様は現在に至るまで、このことばを誠実に守ってくださっています。虹を見るたびに私たちはこのことを確認することが出来ます。「代々にわたって」変わらない契約です。やがて火によって裁かれる時が来ますが、その時がまだ来ていないのは、神様の誠実さ、忍耐、愛のゆえです。この契約が今も守られていることに感謝し、主のめぐみの深さを覚えていきましょう。

 

7月3日のメッセージ

創世記3:15-21

「アダム契約」

 エデンでの契約が、人の罪によって破られた時、神様はアダムとエバ、そしてサタンに対して次の契約を表しました。つまりサタンに対しては15節にあるように女との間に、また女子孫との間に敵意を置きました。エバに対しては「みごもりの苦しみ」。そしてアダムに対しては土地の呪い、労働に対する呪い、死の宣言について語られました。

 もともと助け手であったはずのエバが夫に支配され、夫婦の間にすれ違いが生まれる様になってしまったこと、産めよ増えよの祝福が苦しみを伴うようになってしまったことなどはまさに罪の報いです。アダムが神ではなく妻に聞き従ったことによって、全人類にその代償が回ってしまったことは大きな悲しみです。

 しかし話はこれで終わりではありませんでした。神様はこの呪いの力を打ち砕く答えとして、蛇の子孫と女の子孫との間の敵意、つまり超自然的な方法(処女懐胎)を通して与えられる救い主を預言されたのです。その証拠に、神様は皮の衣を二人に与えました。彼らは初めて生物の死を目の当たりにし、その血によって恥と罪が覆われるのを見ました。それこそイエス様の流す血を表していたのです。

 今、私たちはこのイエス様の血を受け取ることが出来ます。それだけでなく、ローマ16:20にあるように私たちがサタンの力に対抗していくことが出来るようにしてくださったのです。信仰をもって、主の救いと赦し、聖さを求めていきましょう。

   

 

6月19日のメッセージ

創世記1:28-30、2:15-17

「エデンでの契約」

 聖書は、神様と私たちの関係が契約関係にあることを教えています。イスラエルと教会の歴史の中に交わされたいくつかの契約を通して、神様の計画と愛とを知ることが出来ます。

 最初の契約は、エデンの園で神様から一方的に語られました。契約の内容は ①「この地を治めよ」です。地に広がり、そこにいる生き物を治め、地を耕して管理するように、ということです。この地のすべてが、人間に託されたのです。②食べ物に関することです。つまり生きるのに必要なものはすべて神様が備えてくださいます。人間はただこの神様によってのみ生きるのです。だから神に頼り、感謝し、近づくことが出来るのです。 ③そのことを忘れないように、神様は三つ目にルールを設けました。善悪の知識の木です。創造主なる唯一の神がおられるということ、私たちが造られた者であるということを忘れないために、この木をエデンの中心に置きました。

 この契約は、神様がこの地を創造した目的でもありました。それゆえ永遠性をもった契約です。だから神様は、アダムとエバが三つ目のルールを破った時に、これを回復させるためにイエス・キリストの十字架による救いの道を与えてくださいました。神様が愛をもって一方的にした契約だからこそ、自分で責任をとる必要があったのです。

 私たちは、最初の契約を覚えておかなくてはいけません。なぜなら神様は今もなお、この地に祝福を与えたいと願っているからです。「主の祈り」にある通り、この地に神の国が来ますように、御心がなりますように、と祈り続けましょう。

   

 

6月12日のメッセージ

へブル人への手紙 11章8-10

「その都を設計し、建設されたのは神です。」

 アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、、。へブル人への手紙には聖書の主要な登場人物がたくさん挙げられています。彼らは信仰者でした。最後まで主の道を歩き続けました。なぜそのような信仰を持てたのでしょうか。ヒントは11章10~16節「彼は、堅い基礎の上に建てらえれた都を待ち望んでいたからです。、、、約束のものは手に入れることはありませんでしたが、、、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」

 神様はアブラハムに3つの約束をしました。地を相続し、子孫が増え、子孫を通してすべての民族が祝福される、です。ところが現実の世界では約束の地にもかかわらず彼は敵に囲まれ、寄留者のように住みました。しかも天幕生活です。約束はひとつも成就していません。この状態ではあきらめたり、失望してもおかしくありません。

 しかしアブラハムは、目に見える状況に左右されない信仰をもっていました。目に見えない神の都、神の国をひたすら待ち望んだのです。その都は神様が設計し、建設される都です。天地創造から始まり、携挙や救い主の再臨、千年王国とそれに続く永遠の御国に至るまでの壮大な神の国の計画です。アブラハムたちはその都を待ち望んだのです。

 私たちはその大きな計画の一部であり、またその最前線を生きているのです。そして私たちの神様は私たちにそのための働きを用意しておられるのです。たくさんの災害や戦争のうわさ、家庭、学校での問題の真っただ中で、今日のみことばは私たちを励まし、強め、ひきあげるように働くのです。

   

 

6月5日のメッセージ

へブル人への手紙 11章5-6    メッセージ 岩間剛牧師

「信仰が鍵です」

 イエス様は弟子たちに3年半かけて、信仰の訓練をされました。嵐の船の中にあっては、いつでもイエス様がともにおられる、ということを彼らに教えました。困難な状況や苦しみの中で私たちは浮足立ってしまいますが、信仰は困難の中で試され、明らかにされるのです。

 「救い」に関しては、私たちにはイエス・キリストを信じるという単純な信仰があるだけです。しかし日々の信仰生活において、救いに関する信仰だけでは厳しいものがあります。この世界で生きていくためにはイエス様が弟子たちにされたように信仰の訓練が必要なのです。

 地上はこの世のシステムが強い影響を与えている場所です。お金や名誉や結果など、目に見えるものが価値あるものです。しかしイエス様は、この地に永遠の神の国を建て、神の国のシステムを表そうとされています。神様の国において、唯一確かな道は信仰だけです。見える者が支配しているこの世界で、私たちは主への信仰をも守っていくのです。その信仰こそ、この地に神の国をあらわす力になるのです。

 

5月29日のメッセージ

伝道者の書 3章1-8

「すべてのことに時がある」

来週はもう6月に入り、2016年も折り返し地点を迎えようとしています。この半年、神様を愛し、人を愛する生活をどのようにしてきたか振り返ってみる良い機会ではないでしょうか。」

 個人的な証しです。今年のはじめ、あることをきっかけに大きな悔い改めに導かれました。夫として、父親として、また教会の働きにおいて、自分の罪や不誠実さや弱さを主の前に告白し、夫婦で祈りました。3月には、昔に体験した教会の分裂によって生じていた内側の傷としこりのようなものを、イエス様のあわれみのなかで癒してくださる出来事がありました。そして4月に信仰の先輩でもある父が天に召されました。葬儀では今までおせわになった方々と顔を合わせ、悲しみの中にも感謝な交わりすることができました。今までの人生に一区切りがつき、新しいステージが始まるようなそんなことを感じさせる半年でした。 

 「神のなされることは、全て時にかなって美しい。」イエス様は私たちにいつでも語り掛け、忍耐をもって私たちを見守っておられます。そして一番良い時に私たちを助け出すのです。私たちはただ主の御国と御心とがなるように、と祈り続けましょう。

 

 

5月22日のメッセージ

ヨハネの福音書9章

「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えないものが見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

 生まれつき目の不自由な男性がイエス様のいやしによって見えるようになりました。最初、弟子たちはその病気の原因を男性やその両親の罪にあると疑いました。しかしこのことは、神様の特別な計画の中にあったことだったのです。弟子たちの理解は限られた知識の中でなされたものにすぎませんでした。

 これはありうることです。聖書、そして神様について、私たちは限定的にしか理解できません。しかしそれが悪いわけではありません。問題は、知ったつもりになっていることではないでしょうか。9章の後半は、男の癒しに対する律法学者、パリサイ人たちの反応について記されています。彼らは目の前にイエス・キリストの力を見たにもかかわらず、受け取ろうとはしませんでした。彼らこそ、聖書から救い主の約束や神の愛について理解しているべき人たちだったはずなのにです。知っている、わかっているという高ぶりが、彼らの目を神に対して盲目にしてしまいました。

 イエス様の声を聞いた男は「主よ、私は信じます。」と素直に受け取りました。ここに神様のわざがあらわされました。私たちもへりくだって主のみことばを信じ続けましょう。

 

 

5月15日のメッセージ

Ⅰコリント人への手紙  1:10  

「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなた方にお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」

 コリントの教会にあった問題の一つは分裂、分派に関することでした。ある人はパウロ、ある人はアポロ、ある人はケパにつく、と。それはメッセージの仕方の違いや、伝道の仕方、キャラクターなどに対する好みから来ていたかもしれません。批判や言い争いの原因は無慈悲と自己中心にあります。「キリストにつく」人たちでさえ、憐れみを失い排他的になるなら先の人たちと同じなのです。

 パウロは数人以外にバプテスマを授けなかったことを感謝しています。それは教会の中で「誰からバプテスマを受けたか」という誇りが、分裂の原因にになっていたからです。これは現在にも当てはまるかもしれません。母教会の文化に固執したり、有名な牧師先生のもとで育ったとか、そういう価値観が教会に亀裂を生むことがあるからです。

 大切なバプテスマのことを取り上げながら、パウロはむしろ十字架に目を留めるようにと促します。キリストの十字架の前にへりくだることが、私たちを一致させる力です。1章の1節から10節までの各説に、イエス・キリストが強調されているのはそのためです。十字架の愛にとどまり、神の心と判断に心を合わせることによって、神様が私たちを保ってくださいます。

 

5月8日のメッセージ

詩篇46:1-7  

「神はわれらの避けどころ、また力。苦しみの時、そこにある助け。」

 人生におこる問題や困難は、私たちに恐れや不安を引き起こします。それが自分の力ではどうしようもないほど大きなものの場合(地震や災害など)は特にそうでしょう。それらの中にあってしっかりと立つことのできる人はいるのでしょうか。

 この詩篇を書いた人は、1節のことばを宣言することで力を得ました。「避けどころ」とは単に逃げ込む場所という意味ではありません。それは神様によって築かれた城壁の様なものです。敵に対して力強く立つことのできる要塞です。そしてその避けどころは私たちに力を与えます。「神のことばは生きていて力がある(へブル14:12)」のです。神様の愛とめぐみ、み言葉の中にこそ私たちに力を与える秘訣があります。「全き愛は恐れを締め出します(Ⅰヨハネ4:18)。」

 4節にある川は、エルサレムの城壁の真下にあるギホンの泉から流れる川を思い起こします。それは城壁を堅固なものにするために欠かすことのできない流れでした。命を守る泉だからです。それは私たちのうちに流れる聖霊の命の流れでもあります。「まなかに」ということばは、内側のさらに奥、一番中心という意味です。そこに聖霊をお迎えするとき、私たちは命の基を得ることになります。それはどんな苦しみの時にも私たちを強く生かすのです。あなたの心の真ん中に、主をお迎えしましょう。

 

 

5月1日のメッセージ

ローマ人への手紙1:1-7

「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です・・・。」

 パウロは新しい場所に出ていき、み言葉によって人々を訓戒しました。離れていても、手紙などを通して関わり続けました。彼はいつでも「召された人々」を励まし続けました。彼が使命に生きたように、主と出会ったすべての人々に主の召しが与えられているからです。私たちはどのようにこの召しに向き合えばいいでしょうか。

①主の権威によって。 この話を聞くと「私には何もできない」と感じるかもしれません。マタイ28章に目を留めましょう。この大宣教命令の土台はイエス・キリストに与えられている「権威」です。私たちが出ていって弟子をつくることは、私たちの能力や知識によってではありません。この宇宙の全てを支配しておられる神の力がその背後にあるのです。それゆえに私たちは出ていくことが出来ます。神様の計画に漏れる人はひとりもありません。

②み言葉によって私たちは主の召しを成し遂げます。誰かの方法を真似することによってでありません。イエス様は「出ていき」「バプテスマを授け」「教えること」によって人々を弟子にするように計画され、命じられました。このみ言葉に根差して進むとき、私たちは主の働きに参加できます。

③教会に与えられた働き 人々を育てることも、宣教の業も、個人に対してではなく「教会」に対して命令されている働きです。私たちは一人ではありません。一人で働くのではありません。互いに励まし合うことによって、教会として主の働きに参加するのです。それぞれの賜物を分かち合うことで宣教が進むようになっているのです。 あなたは神の教会の一部です。あなたが必要です。

4月24日(おともだち礼拝)のメッセージ

詩篇69:13

 小さいおともだちは、視野が狭いといわれています。自分の見えている世界だけがすべてで、それゆえにまわりの大人のからの注意や忠告がわからないことが多いのです。私たちの信仰の目はどうでしょうか。

 神様は「時」を知っておられます。神様の時があると聖書は教えています。しかし私たちは自分の思う通りにことが進まないと、「なぜ」と主を問い詰めてしまうこともたびたびあります。わかっていてもそうなってしまうのです。

 問題の一つは神様への信頼度ではないでしょうか。自分の視野だけが全てだと思ってしまう小さなおともだちのように、本当にすべてを知っておられる神様に対してさえ文句を言ってしまうのです。私たちがいつも覚えておかなければいけないことは、私たちの神様はこの世界を創造し、支配されているかただということです。感謝なことに、私たちは人生をこの方にお任せすることができるのです。

 信仰が試されるのは困難や試練のときです。「しかし」ということばは重要です。難しい状況の中で「しかし主よ」と主をみあげることで、人生の主人を、自分ではなく神様にお任せすることが出来るからです。 そして「この私は」と主体的に主を信じることが出来るようになります。神様はあなたと関係をつくりたいと願っています。誰かほかの人の信仰によってではなく、この世の情報によってではなく、主なるイエス・キリストとの交わりを通してです。

 今週、困難なことが起こった時、私たちもこう祈りましょう。「しかし主よ、この私は、あなたに祈ります。」

 

3月27日のメッセージ(復活祭メッセージ)

ルカ24:1-12 、マタイ28:1‐10
                 「主はいきておられる」

▼「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」 イエス・キリストの復活は私たちのすべての固定概念を覆すものであり、私たちの理解をはるかに超えた神様の超自然的なわざです。女性たちは自分たちの理解を超えた何かが起きたことを知りました。私たちがおちいりやすいまちがいは、自分の理解や体験の中に神様を押し込めてしまうことです。主なるイエス・キリストは、偉大な復活の力をもって、不可能を可能にする神の愛を知らせてくださいます。▼「女たちはイエスのみことばを思い出した。」 神様の力を体験する大事なポイントは、いつでもみことばに立ち返ることです。マリヤたちは、イエス様が三日目によみがえる、と語られたごじしんのことばを思い出しました。そしてみ言葉を思い出したとき、彼らは向きを変えて新しい方向へ歩き出しました。死人の中にイエスを探す悲しみの人から、弟子たちによい知らせを知らせるメッセンジャーに変えられたのです。これこそ悔い改めです。みことばを思い出し、悔い改める。これがクリスチャンの生き方です。みことばなくして新しい力を受けることはできません。どんなにすばらしい賛美も、霊的な体験も、みことばの力によらなければ無意味です。
▼向きを変えて歩き出した女性たちは、復活したイエス・キリストに出会いました。復活のイエス様は今も生きておられ、私たちと交わることを願っておられるのです。あなたは死人の中に探すようにしてイエス様を見てはいませんか?いつもみことばを思い出していますか?イエス様に出会う準備が出来ていますか? 今も生きておられるイエス様とともに今週も歩みましょう。

3月20日のメッセージ

マタイ9章35-38
                      「聖霊によるきよめ」

  「収穫の主に、収穫のための働き人をおくってくださるように祈りなさい。」
▼イエスは多くの群衆に対してたくさんの癒しと奇跡をおこなわれ、福音を語られました。イエスの目に、彼らは羊飼いのない、弱りはてた羊でした。彼らへの深い憐れみの心、胸が引き裂かれるような、失われる魂への飢え乾きがイエスを動かしていました。そして弟子たちに向けて、上のことばを語り信仰のチャレンジをしました。▼働き人とはだれでしょうか。誰か立派な人が遣わされてきて、その人によって働きが進むようになるとイエスは言われたのでしょうか。このところでイエスは誰を求めているのでしょうか。イエスが必要としていたのは、祈る人です。弱り果てて、救いと癒しを必要としている人たちのためにイエスは祈り人を探しておられました。本当の働き人は、祈りの現場にいるのです。▼実際、イエスはたくさんの働きのあとで、12人の弟子を任命し、彼らを訓練し、遣わされました。祈り人自身が整えられ、送り出されたのです。イエス様は今も、ご自分と同じ思いで人々のために祈る人を探しておられます。▼祈りの中で私たちを整えるのはまず第一に悔い改めです。十字架の前に出続けることによって、私たちのうちがわに主の聖さが実現します。イエス様は私たちを聖めるためにあがないの子羊になったからです。聖さの中で私達は主と出会います。赦しと恵みに満たされ賛美が生まれます。主の力が与えられるのです。そのようにして主の働きへと導かれるのです。収穫の主に祈り始めるということは、収穫のために私たちが参加するということです。神様は私たちの祈りを今も待っておられます。

3月13日のメッセージ

Ⅱテサロニケ2:13-15
                      「聖霊によるきよめ」

    「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなた方を、初めから救いにお選びになったからです。」
▼私たちの神様は「聖め主」です。神が聖であるように私たちも聖であるようにと勧められますが、私たちを聖くするのは私たちの努力や行いではなく、どこまでも神様の業です。▼聖霊を求めるとき、ある人は聖霊の力を求めて祈るかもしれません。またある人は慰めや癒しのために聖霊を求めて祈ることもあるかもしれません。しかし聖霊を受けるということは、そのうちにある聖さを受け取るということです。いやしも奇跡も、聖霊によるきよめが満ちているなら、そこに表されるのです。▼聖くなるとは、神様の聖さの中にはいっていくことです。自分にできることは何もありません。聖めのための準備はイエス様の十字架によってすでに整っているからです。聖霊は私たちをイエス様のもとへと導かれます。▼聖霊のうちに浸るなら、聖霊が私たちを聖くし始めます。私たちはどこにいても、何をしていても、この聖霊の聖さを受け取ることが出来ます。

3月6日のメッセージ

イザヤ 6章1-8節  「聖くあるために」

    「みよ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、罪も贖われた。」
                                        イザヤ6:7
▼イザヤは幻によって、御国での礼拝の様子を見ました。王の座についておられる栄光の主。神の栄光の前で顔も足も翼で覆いながら、「聖なる、聖なる、聖なる」と賛美し続ける天使セラフィムの姿。▼これらを見たイザヤの反応は「ああ、私はもうだめだ。」でした。彼はそれまで、イスラエル民に向かって「もうだめだ」=「災いだ」と宣言していました。民の罪に対する裁きのことばです。しかし今、その裁きは自らに向かいます。神様の聖さの前に自分こそ罪びとであるとわかり、「あぁ」と打ち砕かれてしまいました。▼神の聖さのまえにイザヤが「唇がけがれている」と言ったのにはわけがあります。唇は舌や口、つまり私たちの話すことばのことです。ヤコブ3:6には「舌は私たちの器官の一つですが、体全体を汚し、人生の車輪を焼き…。」と書かれ、口が体全体に影響を与えると考えられていたことがわかります。特に預言者であるイザヤは、神の聖さに対して自分の唇の汚れを打ち砕かれたのです。しかし、天使は彼の唇に聖めを宣言します。神の火によるきよめです。神の側から一方的に与えられるきよめです。▼イエス様の十字架によって私たちも聖められました。イザヤのように私たちもへりくだるとき、神様は私たちの口も用いてくださるのです。ある教会では、クリスチャンの交わりのルールとして「霊的なおしゃべりをしよう」と教えています。私たちは気を付けなければ賛美とのろいが同じ口から出てくるような者だからです。しかしそれはあってはならないことなのです。▼私たちの口を、賛美と祝福、ゆるしと恵みを宣言することのために使うと決心しましょう。神様はそのような人を探しておられるのです。

2月21日のメッセージ

詩篇51:17

「かみへのいけにえは くだかれたたましいくだかれた くいたこころ」
                             詩篇 51:17
▼聖書の中には、アブラハムをはじめにモーセ、イザヤ、ダビデなどたくさんの信仰の先輩たちが出てきますが、彼らは失敗や弱さを通して「くだかれる」体験をした人たちです。自分が頼ってきた才能や力を失い、プライドがくだかれることによって神様に立ち返り続けました。▼ダビデがバテシェバとの姦淫の罪を指摘された時、彼はこの詩篇を読みました。部下たちの前で自分の罪を認め、悔い改めました。神様は彼の悔い改めを受け入れました。▼私たちは神様におおくの捧げものをするかもしれません。ある人は奉仕をささげ、ある人は賛美をささげ、ある人は断食の祈りをささげるかもしません。十分の一献金も大切な、欠かすことのできないささげものです。▼しかし神様は私たちの「行い」よりも、その心を見られる方です。イエス様が『わたしは憐れみは好むが、いけにえは好まない』という聖書の言葉を引用された時、人々の捧げものは形だけの物でした。それどころか人々の心はへりくだりとは真逆の、さばきあいを礼拝の中でしていたのです。イエス様はそのことのまちがいを教えました。▼イエス様のたとえばなしに、父親の仕事を手伝うように言われた兄弟の話があります。兄は「行きます」と言いながら手伝いに行きませんでした。弟は最初は反発しましたが、あとで心を変えて仕事を手伝いに行きました。神様の祝福を受けるのは、悔い改めた方です。▼私たちは神様にどのような礼拝をささげているでしょうか。いまいちど神様の前にへりくだりましょう。イエス様、私のかたくなな心をおゆるしください。私の高ぶる心を打ち砕き、つくり変えてください。私の罪をしめし、きよめてください。

2月14日のメッセージ

出エジプト15:11-13

「だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、くすしいわざを行うことができましょうか。」  出エジプト15:11

▼「聖い」ということばに聞く時にどのようなイメージをもつでしょうか。けがれがない、純白、畏れ多い、等々。神様の聖さは、そのようなものをはるかにしのぐものです。▼神様の聖さは力を伴います。へブルの12章には「私たちの神は焼き尽くす火です。」とあります。火は鉄さえも溶かし、精錬します。1500度以上の熱によって不純物を完全に取り除きます。神様の聖さの中に入っていくとき、力強い神様の聖さが私たちのうちに影響を与えていきます。▼神様の力は私たちの罪を取り除きます。罪は、私たちの力ではどうすることもできない拘束力を持っています。しかし神様の力はそれらよりも強いのです。十字架によって主は勝利してくださいました。▼神様の力は全ての呪いを打ち砕きます。どんなに強く築かれたように見える、悪しき者の土台も、神様は打ち砕きます。この世の支配者のようにふるまうサタンより、神様のほうが強いのです。▼神様の聖さは、私たちを解放する力を持っています。本来なら神様のそばに立つことも許されなかった私たちでしたが、イエス様の十字架によって、神様の愛のゆえに神の子とされました。神様の願いは私たちを罪の束縛から自由にすることです。イエス様の愛の中で、私たちはもはや恐れや不安や憎しみから自由になることが出来るのです。

2月7日のメッセージ

Ⅰコリント1:1-13

「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。」
▼私たちの立場、それは恵みによって聖なる者であるということです。神はなぜ私たちに聖さを与えたのでしょうか。▼はじめに、それは神が聖なる方であるからです。完全に義なる方です。だからけがれたものと共にあることはできません。神が与えるのは、その性質に属するものだけです。神の中に留まるとき、私たちは神の聖さを反映するようになります。▼次に、私たちを聖くすることが神の計画だからです。創世記の2章に、安息日を聖とされたとあります。主がすべての創造の業を休まれた時、つまり被造物と神とが、聖さの中にとどまることが神様の創造の目的でした。エペソ1:4では、それが「世界の基のおかれる前から」の計画であったとあります。そしてローマ8:28-30には、召された私たちがやがてイエス様と同じ姿に変えられると約束されています。私たちは、今の世にあっては聖くされ続け、やがて天にて完全にされるのです。▼第3に、私たちが聖くなることが神様の望みだからです。Ⅰペテロ1章では、神が聖であるように、あなた方も聖とされなさい、と勧められています。 神様は私たちと共にいることを、ひとつになることを願っています。聖さとは正反対の私たちと共にいるために、イエス・キリストを身代わりとし、私たちが裁かれないようにしてくださいました。神の聖さの前にそのままでは一瞬で滅びるしかない私たちを、イエス様の血潮によって覆い、神に近いものとしてくださったのです。▼聖さへの願いは、神の恵みに対する感謝から始まります。律法的な動機からではないのです。主の恵みの前に日々進んでいきましょう。 

1月31日のメッセージ

Ⅱテモテ2:22

「それであなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」
▼テモテへの手紙はパウロからテモテに当てた手紙です。テモテはパウロにとって大切な動労者であるとともに、養い育てる魂でもありました。若いテモテに対して、主への聖さを守るようにとおしえます。しかし今日は、テモテにではなく、彼の周りにいた「聖い心で主を呼び求める人たち」に注目してみましょう。▼パウロはテモテがほかの誰かを育てることが出来るようにと考えていました。パウロは霊的には4代先まで見て、テモテを育てようとしていたのです。その彼に必要なのは、テモテの周りにいる人々でした。彼らは若いテモテを励まし、助けることのできる人たちでした。▼聖い心で主を呼び求めるとはどういうことでしょうか。彼らは完璧な人々ではありませんでした。しかし義と信仰と愛と平和を追い求める人々でした。私たちの義はイエス様の十字架によって与えられました。信仰も、その創始者であるイエス様から目を離しては成り立ちません。愛も、平和も、私たちには作り出すことはできません。だから主なるイエス・キリストを追い求めるのです。テモテの周りにいた人々は、失敗や罪や弱さを抱えながら、それでもイエス・キリストを追い求め続ける信仰を持った人々でした。若いテモテを育てたのは、そのような信仰を保ち続けた人々だったのです。▼教会の中に今若い魂が育っています。彼らはこれからますます成長していきます。彼らに必要なのは何でしょうか。それは今いる私たちが、弱さや足りなさの中でも、問題の中でも、それでも主を拝し、感謝し、祈り続けることによって証しすることではないでしょうか。次の世代を育てる責任を、私たちは負っているのですから。

1月24日メッセージ

 「ゆたかにまくものはゆたかにかりとる」
                 Ⅱコリント 9:6 下
 ▼パウロはここで献金について述べています。それはいやいやながらするものでも、強いられてするものでもありません。なぜならこのささげものは愛を表すものだからです。ここでのポイントは「豊かに」です。▼豊かさはどこからくるでしょうか。一番豊かなのは誰でしょうか。私たちの神様こそ最高に豊かな方です。それはどういう意味でしょうか。この世界をおさめ、所有されている神様は確かに豊かな方だということができます。しかしそれだけでは、人間的なレベルでしか神様を見ていないことになります。▼神様の豊かさの特徴は「与える」です。私たちの価値観では、多く「持っていること」が豊かさの基準です。しかし、聖書は多く与えることのほうが豊かだと言います。愛の本質は、イエス・キリストが十字架の上に自分の命をささげたように、自分自身を捨て去り、ささげることだからです。この点において、神様ほど豊かに私たちを愛される方はほかにありません。▼ある人は神様はケチだと感じるかもしれません。物事が自分の願うようにはならないからです。しかし、も

しすべての願いが叶うとしたら悲惨なことです。罪の性質はもっともっとと、満足をしないからです。聖書はこれをむさぼりと呼びます。むさぼりは人を幸せにできないのです。▼神様は私たちに必要なものを豊かに与える方です。豊かに与えるものほど神様に近づき、神の愛を知り、豊かな神様を体験します。だから神様の法則は「豊かにまく者は豊かに刈り取る」なのです。豊かに備えてくださる神様に感謝しましょう。

1月17日メッセージ

Ⅱコリント:15-18
 「主の働きによる」

▼モーセの顔覆いとは、十戒を授かった時の出来事です。神に近づいたモーセの顔は、神の栄光に照らされて輝いていましたが、やがてその輝きは去っていきました。その様子をモーセは覆いで隠しました。パウロはこれを律法主義とかさねています。律法に生きようとする彼らは、自分の力で自分の義を立てようとして、神の栄光を放つことが出来なくなりました。▼しかしイエス・キリストによって義とされた私たちは、主が覆いを取り除けてくださったので、いつでも神様と出会うことが出来るようになりました。しかも、「栄光から栄光へと主と同じ姿に」変えられる者となったのです。▼本来なら、神様の聖さの前に、私たちは一瞬たりとも立つことはできません。主の正義の前では裁かれざるを得ない存在です。しかし、一方的な恵みによって私たちは救われたのです。私たちの行いによってではありません。同じように、救いから始まり、聖さの中を歩み、やがて天国で主と同じように栄光の姿に変えられるまでの全ての歩みが主の一方的な恵みによってなされるのです。パウロはこれを「主の働きによる」と教えました。▼新しい年が始まってもう半分以上すぎました。今年も様々な計画と目標を立てたことでしょう。今一度、神様の前に心沈め、黙想しましょう。その計画、その目標はあなたの目的が果たされるためですか、それとも主の働きが完成するためのものですか。自分の力を頼るのではなく、主が働かれる人生であることを感謝しながら、今年も進んでいきましょう。

1月3日メッセージ

ローマ 6:16-23  「聖潔に至る実」

 「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
▼この時代の奴隷制度には、二種類の奴隷がいました。ひとつは強制的に奴隷にされた人。もうひとつは自分の意思で奴隷になった人です。後者は、奴隷状態から解放された後、主人への感謝と忠義の現れとして、奴隷であることを選びました。▼私たちはかつては「罪の奴隷」、つまり神から離れ、自分の力では自分を救い出すことのできない状態でした。しかし神様からの一方的な愛によって、罪の奴隷状態から解放されました。それはイエス・キリストの命という支払いがなされたからでした。ユダがパリサイ人たちから受け取った銀30シェケルは通常の奴隷売買の相場でした。イエス様ご自身が私たちの身代わりになったのです。十字架の上で支払われたイエス様の命によって、私たちは神のものとなりました。これが私たちの立場です。▼神さまと私たちの関係は夫婦の関係に似ています。夫婦は誓約という契約によって結ばれています。キリストの命という神様からの支払いに対して、私たちは信仰という態度をもって新しい関係に入りjました。これが「義の奴隷」です。それは悲惨な隷属ではなく、愛によって結ばれた関係です。愛し、満たし、備え、力を与える神様が私たちの主です。そう信じる者は、さらなる深い関係に進むために、主の心だけを求めましょう。生活の全ての場面で、主に従いましょう。どんな状況でも、主を信じましょう。聖潔とは、神様との関係だけで満足する者のあゆみです。

 

新年のメッセージ:田中共之牧師

 2016年がスタートいたしました。今年もイエス様にあって、互いに愛し合い、生き方を通して神を礼拝し、主の働きに共に参加していきましょう。

 今年もテーマは「聖潔」です。Ⅰテモテ6:14「私たちの主、イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのないものでありなさい。」時代は刻一刻と神の時に向かって進んでいます。主が求めているのは、神の心だけを求め続ける本当のクリスチャンです。

 神様と私たちの関係は、契約によって成り立っています。神様からの大きな愛に対して、私たちが応答することによってその契約は成り立ちます。私たちの罪という債務に対して、イエス・キリストの命という代価が支払われました。私たちの応答は、イエス・キリストを主として受け入れ、神の前に自分自身をささげることです。結婚の制約と同じように、その関係はこの信仰の決断、決意が土台になるのです。

 聖潔に至る道は、まずこの決意から始めります。そしてもう一つの大事な歩みが生き方を変えることです。罪とは神様無しで生きる生き方です。不平や悪口だけではありません。不安、恐れ、失望など、私たちが陥りやすい感情も、神様ぬきでいることによっておこるものです。私たちはいつでも神様とともに生きることが出来るのです。聖書のみ言葉を思い出し、そのみことばのように生きることを選ぶのです。神様と、そうでないものとを正しく見極めましょう。それを区別することが「聖別」であり、きよいものを選んでそれまでの方法、習慣、パターンを変えていくことを「悔い改め」と呼ぶのです。

 主の従うと決心し、悔い改め続ける歩みこそ聖潔に至る道です。その先にあるのは神様の栄光です。新しい年を、神様とともに歩んでいきましょう。